カテゴリー「家族に関する 原点っていうか」の13件の記事

師匠に会いたい


会いたい 会いたい

師匠に 会いたい

どうしても

最低 あと1000回会いたい

それは無理なので、

せめて、あと100回 

お願いできないだろうか

そのころまでには もう 一緒に 

旅立っているから


親が 死んで 泣くことはないが、

師匠のことを 思い出して 

涙しない事はない

かなわないのは承知だが、星野さんに

もう一度 会いたい


皆さんとは 

あと 何回 会えるのだろうか

誰も知らない

誰にも 当てはまることなのに


明日という日が 来るかどうか 

誰も 知らない

誰にも わからない



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かえっておいでよ!!

観音院一音博道居士

   by 一山浄國院住職 柳沢道寛

かんのんいんいっとんはくどうこじ

    

星野さんがいなくなって、

目の前の世の中が暗くなった。

日々、面白くなくなった。

早く、還っておいでよ

それとも 早く 迎えに来てよ!!

ほしのさん



道寛さんに伺いました。

「一音というのは 実は すべてという意味です。」

星野さんは、光GENJI から クラッシックまで

幅広く 音楽を愛し、自ら ピアノを弾いたり

オペラを歌ったりするのが 大好きでした。

同じ意味で、「無一物中無尽蔵 2006/4」

私のブログに 「THE PROVIDENCE」があります

http://zenpukudo.tea-nifty.com/love/2006/04/post_aef3.html


博道

確かに 博さんは 博識のみならず、

一生が 求道者の一生そのものでした。

多くを語らず、それでいて その生き様で、

道を説くというやり方だったと思います。


大分県知事の公式通訳をしたり、

大学の先生になったり、

通訳は 英語とフランス語とドイツ語 

メモはフランス語

日記は ドイツ語


通訳ができたのは

イタリア語

スペイン語

ポルトガル語

オランダ語


できたのは

ヘブライ語

チェコ語

モルドバ語


読み書きができるのは

韓国語 

ヒンディー語 

タイ語

アラビア語

ラオス語  


勉強中だったのは  

ウズベク語 

ゾンカ語

リトアニア語

今は誰も使わない古代ギリシャ語

「星野さん なんで 誰も使う人がいないのに

勉強するの?」

「あの、街を歩いているやろ、それで

古本屋さんで 古代ギリシャ語の本があったら

すぐ 読めてわかるやろ!!」

これも本当に交わした会話ですよ。


日本語の方言にも精通しており

手紙はすべて 旧かなづかい でした。


専門はロシア語

外大といえば、日本一の

東京外大に進学されたのですが

半年を待たずに 辞められます。

「星野さん もったいない!!」

「なんで、半年で 辞めたの?」

と、たずねたことがあります。

星野さんは

「だって、程度低いもん!!」

ちゃんちゃん

本当の話ですよ。


自分を見失うことのない、偉い男でした。



大学の関係者の方で気分悪くされた方がいらっしゃったら

もちろん あくまでも 何十年前の 星野さんの

個人的見解ですから 気にしないでね。

おおからに、おおらかに

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追慕の日々です

大大大大大師匠 星野 博 さんを 

2009年11月12日 19:00 ごろ に

突然 あまりにも突然に亡くしました。

発見されたのは翌日でした


涙にくれるというのではなく、

なぜなら涙は まだ一滴も出ないから


星野さん 何で死んじゃったの

ぼくは、

星野さんは 死なないと思っていたから


もっと、もっと、

もっと、しゃべりたかった

もっと、教えて欲しかった

もっと、聞きたいことがたくさんあった

もっと、いっしょにご飯が食べたかった

もっと、いっしょに行きたいところが

もっと、いっしょにしたいことが

もっと、顔を見て ピヨピヨ言って欲しかった

もっと、いっしょに写真を撮りたかった

もっと、いっしょに笑いたかった

・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・・・

もっと、いっしょに居たかった。

ぼくは星野さんが、大好きでした


また、ひとり 

無条件で ぼくを 理解してくれる人を

この世から 失ってしまった。 


悲しさの性格としては 

そういう 喪失感が 強い


時々、独りぼっちになったような 

焦燥感 に襲われる

居ても立ってもいられないような

不思議な感覚



もう、別府に行く理由がない

仮に行ったとしても 楽しさが 

半減 いや激減してしまう

それでも 星野さんとの 思い出に浸るために

また別府を訪ねようと思う

何も期待しないまま


36年の長きに渡る お付き合いでした

もう、これから そんなに長く付き合える

友達はできません。


多分できません、努力したらできるかも

いや、長生きしたら できるかも・・・・

できるに 違いない。


ぼくの 周りにいる人たちへ お願い


私の嫌いなこと
1  うそをつく
2  返事をしない   

男女にかかわらず、こころのぶす


好きなこと
1  素直なこと
2  なんにでも興味を持ち 
質問してくること 

人間美人

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そして3日後 母も亡くしました  Condolences to myself

父の お葬式が 

私の反対にもかかわらず

弟・母親の 意向で かくも盛大に行われ

その お葬式の次の日 

つまり 24日 11:22分

母も亡くしました。

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父の死に際(ぎわ)のこと

Img_8224

上から 心拍数=脈拍数  38

血圧   最高血圧   45                               

          最低血圧   12

      酸素濃度  86

一番下が 呼吸数    0


夕方 5時ごろ いよいよ危篤という連絡をもらった

病院には 6時半ごろ着いた

その時は 心拍数が 130 ぐらいあった。

もちろん 呼吸も ぼくと同じぐらい あった

父は 息が通りやすいように、

首を枕で 深く への字 になるように されて、

酸素マスクを付けられ 横たわっていた。

もちろん 意識は無い。


かれこれ 2年近く 入退院を繰り返していた

その間 認知レベルはどんどん下がり

ぼくたちの名前や 顔も わからなくなり

自分のことも 状況も 不明に

ただ、ぼけるのは悪いことだけではない

死に対する恐怖も 無くなるのだから


看護師さんに これからどうなるのか

経験上の話を聞いた 

ぶっちゃけ今晩あぶないのか、と

「今は 心臓の力が ないので

(血圧が低いので、最高が40前後) 

末端まで 血が行くように 心拍が 130と 

全速力で走っている時のような状態です

いつまでもつかは、その人の体力にも依りますが、

真夜中辺りが ・・・・・・・・・・」


この写真は 夜10時ごろ (21:49)

心拍が 38 で 赤くなり ブザーも鳴っています

ブーブーブーブーブーッツ とうるさい

そばで 少し 揺さぶりながら 軍歌を歌います

心拍が 60,70 に 跳ね上がりました

美空ひばり、島倉千代子、村田英雄 も効きました

呼吸が 0 なのは、たまたま読めないからです


まだほかの家族は来ない

一度 子どもや 弟の家族や 母親を

家に帰したのです

その直後 急変し また呼び戻しました

まだ家には着いておらず みんな途中から

また、病院を目指しています

何度も心拍数が 30,40 になるし、

間に合うものやら やきもきしましたが、

何とか みんな間に合いました

あとは徳島から駆けつけている 孫の優ちゃんだけ

間に合うかどうか 気がもめる中

真夜中 0時に 優ちゃんも病院にたどり着きました


そして 0時10分 すべての 数字が 0になり

医者が呼ばれ 形どおりの 脈を取り

死亡が確認されました。

7月21日0時10分享年83歳

まさに 待っていたような タイミングで逝きました。


そして すぐに 弟が 葬儀社に連絡し 

その夜 2時ごろ 葬儀社の寝台車が 

明石から父を運びに来ました。

父のなきがらと 私は その後 

こっそりと 病院を抜け出し 実家に向かいました。

この時、病棟にいた 看護師さん 3人と

医師が 寝台車まで ついて来られ

車が出る時に 深々と 頭を下げていただきました

私は この時 父が亡くなったことを理解しました。

 

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父ちゃんが死んだ

とうちゃん

とうちゃんは ぼくや おとうとの しげおが 

まだ おさなかったころ

やすみのたびに 平野の おばあちゃんや 

兄のたもつおじさんのところへ

栄町の 停留所から 市電に乗って 

よく連れて行ってくれました。

終点が 平野でした

市電のなかでは たいへんでした

目の前に立ったお客さんの手荷物を いきなり 奪って

自分のひざの上に置くものだから

お客さんは どぎまぎ

僕たちは どきどき しました

「荷物持ちましょうか?」の一言が言えない 口下手な人でした

昔は こうして親戚の家に 遊びに行くのが 

休みの日の過ごし方でしたね


そして おとうさん 

おとうさんは 会社からの 転勤命令があるたびに

断っていましたね

こどもの 学校を 転校させるわけにはいかないと

おかげで 今でも 小学校からの友達と仲良くしていますよ

おとうさんは 昇進には 縁がありませんでしたね

それでも、日本のノーベル賞といわれる 

科学技術庁長官賞をもらった時には 家族は 鼻高々でしたよ


そして おやじ

おやじが 定年退職をむかえるころ

3人の兄弟の中で 誰と一緒に 暮らしたい?

そりゃあ 一番下の よしゆきや と

なんで? と聞くと

この世で 一番つきあいが短いからね

夢は かない 3人の孫と幸せな晩年でした


おとうちゃん 

おとうちゃんは 家族に 本当によくしてくれました

ありがとう・・・・・  本当に ありがとう

そして

これからも 

よろしく

 

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誰にも ほめてはもらえないけれど

きょうまで 3日間ほど必死でした。
30年来の 付き合いのある 友人から 
赤ちゃんの時に 別れた娘が 日本にいるみたいなんだ

ここが出発点
名前しかわからない 僕は 顔もわからない
よしんば 神戸方面にいるらしい などという 
不確かな情報があるのみ

これじゃ、とても行き着かないなあ と嘆いていた
しかし ここから 奇跡が起こる
ほんとに 奇跡以外の なにものでもない
あと 運のよさ ご利益 ついでに 法力とやら

わずか 1時間で ともかく 娘さんの メルアドがわかった。
たくさんの奇跡のおかげで・・・・・・・ suncoldsweats01sun

でもここからが また どうしたものか?

お父さんである 友人に 連絡した
ひとこと 「メルアド わかったよ!」と 伝えた
あまりに 突然で あまりに 急な展開に
何か 戸惑ってしまったようで

メール自分でしたら? と呼びかけたものの 
やっぱり、遠くから 見守るだけにしよう などと 
ふざけたことを・・・・・・ ぷんぷん thunderannoythunder

しかも その後も 
はぐらかしたような内容のメールが来て
老婆心がどうのこうの、と
戸惑いが わかるものの
会いたいと言っていたのは お前じゃなかったのか?
と、憤(いきどお)る

もうだめ
まあ、直接と言うのも 
お互い いろいろあるだろうからなあ
ここは 僕が ひとはだ脱いでやろうか?

それから 何時間もかけて
友子(仮名 友達の子だから)さんに関する 情報を
できるだけ集めて 長~い メール 書きました。

ほとんど書き直すことなく 一気に書き上げました。

言いたかった 中身は たった一言
『あなたは 二十歳になり お父さんは 60歳を超え
後は歳を取っていくだけだから できれば 仲良くして欲しい』

「なんで きょう 30日 月曜日の 夜中
(日本時間)に 急にメールしたかと言うとね 
(友人からは土曜の夜 この話を聞いていたけど)
土・日曜日は 日本政府がね この 28日から 
景気対策とやらで 高速道路 どこまで行っても 
1000円 にしたのよ・・・・ それで、うちも 
春休みと重なって ちょっとだけ忙しくてね

だけど あなたの お父さんの 61回目の 誕生日が 
あさっての 4月1日 に迫っているから、
もし良かったら 「おめでとう」 って だけでも 
メールしてあげたら喜ぶだろうな と思ったから。

ごめんね 絶対してという、お願いではないよ。

大丈夫 ゆっくり 考えたり 何か質問あったらしてください。」

さて、返事は、あるでしょうか?
もちろん 必ずあるとは限らないし ましてや 
私のことを信じてもらえるでしょうか?
一抹の不安はあります。

でも、その夜 そのまま 朝まで 返事を待ちました。
これは 実は 彼女は、もう海外に いるようなので 
時差も考えたからです。
すると 忘れもしない 3:06分
彼女から の メールが入りました。

どきどきして、クリックしました。

とても長い 私の 書いたメールより 長い 
心のこもった メールでした。
その中で 父には 18年以上会っていないこと 
而(しこう)して しゃべってもいないし、 
写真は 1枚しかないので 顔も 覚えていない 
母親に どんな 顔 だったと聞くと いつも 
鏡をみてごらん お父さんそっくりだよと 言われること 
などが リズミカルに 綴(つづ)られていました。

ただ、お父さんの 誕生日については 
『父に フェリス・アニヴェルサリオとお伝えください。
(ポルトガル語でハッピーバースデイです)
 パソコンが近くにあれば ネットのアルバムに載せてある
成人式の写真見せてあげてください。』


「よっしゃー」


うれしかったですよ。そりゃ とても とても

それから また ネット上の アルバムから 
たくさんありました 多分300枚ぐらい の写真の中から 
60枚ぐらい とびっきりのを選びました。

それを 元町のカツミ堂さんで プリントしてもらい 
この 2日ほどの やり取りのメールを 印刷し
字が小さいので コンビニ で 拡大コピーし
 
郵便局で EXパック 買って 友達の 住所書いて
アルバムなかったらかわいそうなので アルバムも買って
全部 全部 封筒に入れて 今日の 昼すぎに 出してきました。

たくさんの 運命と 思いと せつなさ のつまった 封筒です。
友子さんの たくさんの笑顔の写真
友達に囲まれた 写真や アヒルの口した 少しふざけた写真
水着の写真や パーティの写真
そして、極めつけは 成人式の写真
振袖姿の 二十歳の 友子ちゃんの 写真です
友人は どういう思いで 一枚一枚 見ることでしょう。

当たり前ですが 私の友人は まだ知りません
あす この封筒が 彼の手に渡って初めて
私が 勝手に ことを進めていたことを知るのです。
その時まで 彼は何も知りません
封筒の うらには 赤く 大きな字で 
フェリス・アニヴェルサリオ と書きました。

その時の彼の 顔を わたしも 友子ちゃんも 
見ることはできませんが
18年の わだかまりや だから いまさら 
どう対応していいのかわからない・・・・・ 
数々の逡巡(しゅんじゅん)ためらい 
いろいろな思い 一気にで なくていい 少しづつ すこしづつ
だって、何か 始めなければ 何も変わらないですものね


ここまで 読んでいただいて ありがとうございました
私 うれしくて うれしくて 一人でも だれかに 
おすそ分けしたかったのです。


ところで 明日は 4月1日
エイプリルフールです。


・・・・・・・ですが、
ご安心ください。何のどんでん返しもありません。

あとでわかったのですが 友子ちゃんは 3月2日までは
日本 しかも 神戸に いたそうです。
お父さんは 大津 親子は どこかで 引き合ったり 
わかり合っているものですね。

それでは また 続きの ストリー 
書けるときが来たら 書きますね

彼ら 親子の 幸せと 世界の人々が 
少しだけ 幸せになれるように 一緒に 祈りましょう heart02

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黒いネクタイ

父のことで 

あれから、いろいろあったよ。



2度ほど危篤になって、

一度は敗血症

もう一度は

腎盂腎炎からの多機能不全



導尿カテーテル引き抜いて

血だらけになってみたり



その間にも

弟の自殺未遂



弟夫婦の離婚問題

もちろんその仲裁とまとめ役

うつの弟と子どもたちとの仲を持ったり、

そして、礼服を持たないぼくですが、

長男なので、黒いネクタイを

100円ショップで買いました

麻のように涼しげなネクタイでした

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看護士からのSOS -5-


4Fの東病棟に案内され、

結局、父はナースステーションの中の

集中治療室のようなところに

入れられることになった。

もちろん、

一番、目が届くということもあるだろうし、

それは、同時に

父の状態が軽くはないということを

家族が、思い知らされることにもなった

すぐにではなかったが、何日かして

熱もやっと下がり、

意識もそろそろはっきりしてきた

ただ、私が誰かは、もう、はっきりとはわからないらしい

が、こちらはそんなことは別に気にならなかった。



父も徐々にではあるが、

回復に向かい始めたころ

それでも、父は車椅子でしか、

移動することができなかった

院内を散歩と称してウロウロしても、

夜、父に付き添っていると、

なかなか寝てくれない

こっちは充分眠いのだが、

それもそのはず、

父は、昼間寝ているものだから、

夜昼逆転しているような感じなのだろう

しかたがないので、

いっしょに、軍歌を歌う

かろうじて聞いたことのある程度の私は

歌詞が、とてもぎこちないが

でもそこのところは、適当にごまかして歌う

夜な夜な、4F東 のナースステーションからは、

あやしげな軍歌が聞こえてくることになる

「きさまと~おれとは~」

ぼけているはずの父だが、この時ばかりは、

私より歌詞が正確なのは言うまでもない

こころなしか、どこからか

看護士さんたちのSOSが聞こえてくるようだが・・・

こうして、約1ヶ月にわたった父の

入院生活も終わりを告げようとしていた。

そんなときに、

また、あんなことが起きてしまった。

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父からのSOS -4-

正直に言おう

なにより、ウンチに触れるのがいやだった

ものとしてのウンチもいやだが、

自分の父のウンチに触れることで、

父としての威厳が

私と父との関係が、

ガラガラと壊れていくようで、いやだった。


最近の父は、オムツをしている

最初はおしっこだけ、垂れ流すのは

でも、最近は、お風呂に入っても、

ウンチが浮いていることがあるらしい

ましてや、今は、硬くないウンチが

オムツにいっぱい付いているに違いない

でも、母親におしりを上げさせてまで

座薬を入れられるはずもない


あとは、このわたし

長男だし、おとこだし、ここで、がんばっとかないと、

あるかないかわからない財産の行方にも

大きく影響が出るかもわからないし

ええーいっとは思わなかった。


待てよ、明日の朝まで様子を見て、

きっとそれまでには、熱ぐらい下がるよな

だって、39度ってことは、40度よりましなわけだし

まあ、そばにいるだけでいいか

と、こっそり自分に言い聞かせた

よく朝、 8時過ぎに医院より電話があった

「お熱、下がりましたか?」

まずい、実は、朝7時過ぎに熱を見ると、

まだ、39度ぐらいあり、あわてた私は、

意を決して、ウンチをものともせず、

座薬を差し入れたばかりだったのだ

まだ、効いてこないに決まっている

「あ~どうしよう」

ウンチにへこたれたばっかりに、

父を危ない目に合わせてしまった

「はい、まだ、熱は下がっていません。

39度あります。」

「じゃ、病院へ、紹介状書きますから、

9時過ぎに取りに来てください。入院の連絡入れておきますから」

「はい、わかりました。」

でも、自分の悪事は吐露できなかった。

病院に着くなり、救急で処置することになり、

私たち家族は、寒い待合室で

しゃべるでもなく、肩寄せ合ってたたずんでいた。

ただひとり、私だけが、良心の呵責(かしゃく)に、

さいなまれていた。

2時間ぐらいたったころ、医師の説明があると

診察室の中に入るように看護士に呼ばれた

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